千葉一族盛衰記~千百年の都の始まりと蝦夷の話~【2023年7月号】
千葉一族を考えるうえで、桓武天皇を知ることは重要です。なにしろ、千葉一族は歴史上「桓武平氏(かんむへいし)」として語られることが多いので、「桓武?」というところでつまずいてしまうと、この先つまらなくなってしまいます。
この桓武天皇、血縁という意味において千葉一族の基礎であるのは言うまでもないのですが、彼がなした事績についても、千葉一族繁栄の礎といえるものがあります。
本稿では、桓武天皇のそんな二つの事業についてみていきましょう。
第二話 千葉一族繁栄の基礎となった桓武天皇の二つの事業
一つ目は「平安京を都(みやこ)と定めた」ことです。桓武天皇が平安京、つまりざっくり言えば京都を都と定めたのが794年。その年から、平清盛が福原に遷都した1180年の1年間を除き、なんと明治2年(1869年)までの約1100年の長きにわたり、かの地は「都」でありつづけました。
桓武天皇が平安京を都としたいきさつは、当時強大な政治勢力を誇った奈良仏教団の影響力を削ぐ目的や、皇位継承をめぐる抗争の果てに憤死させた早良(さわら)親王の怨霊に対する畏れが背景としてあると言われており、調べてみるとなかなかに血なまぐさい権力闘争が浮かびあがります。しかし、とにかく「日本の中心地」を定めた役割は非常に大きいといえるでしょう。
また、千葉一族の繁栄という文脈で考えると、この「都の確定」が非常に大きな意味をもちます。国の成り立ちというのは、古今東西問わず基礎がしっかり定まってから地方の平定、という段階を踏みます。平安京の人たちからみれば、後に千葉一族が繁栄することになる当時の千葉県一帯は、蛮族が暮らす未開の地でした。その意味で、平安時代の幕開けは、「未開の地の平定」を任された千葉一族の繁栄にとってなくてはならないエポックだったわけです。
桓武天皇の事績として次にあげられるのが、蝦夷(えみし)の討伐です。蝦夷というのは、現在の関東地方から北海道、樺太にかけて住んでいた民族を指します。日本書紀には、蝦夷は入れ墨をした荒々しい民族として描かれており、「都の側」の人たちからすればいわゆる「蛮族」そのもの。この蝦夷と呼ばれた人たちは、もちろん朝廷の権威などとは無縁の「独自の生活文化」を作り上げて関東から東側の地で暮らしていました。
彼ら蝦夷に対して、桓武天皇は征討軍を3回送っています。民族自決の精神にあふれた(笑)第二次世界大戦以降の世界に生きる私たちからすれば、朝廷は朝廷、その他民族の皆さんはそれぞれで仲良く暮らしていけばいいじゃないですか、と思いますが、当時は力がすべての時代です。桓武天皇や都の人たちからすれば「朝廷の権威に従わない物騒な奴らだ! 成敗せねば」という、恐怖からくる怒りがあったことでしょう。
桓武天皇から、3回目の征討軍のトップに任命されたのが、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。このとき、田村麻呂につけられた称号が「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」でした。
後に「武人の最高栄誉職」という意味をもつことになり、源頼朝にも徳川家康にも与えられたこの称号は、田村麻呂の時代において「征夷=蝦夷を征服する」大将軍という本来の意味で使われていたわけです。
さて、田村麻呂によって事実上ほぼ平定された蝦夷は、次回登場する平高望(たいらのたかもち)にも浅からぬ因縁があるのですが、そのあたりのお話しは次回にいたしましょう。
【著者プロフィール】
けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。