千葉一族盛衰記 第六話「平高望と菅原道真の人生の交差」【2023年11月号】
今回から、平将門(たいらのまさかど)の話しに舞台を移していきましょう。
前号の家系図をご覧いただくとわかりますが、将門は千葉一族の祖、平高望の孫です。また、将門の次女である春姫は、将門の従弟である平忠頼の正室となり、平忠常(たいらのただつね)という「上総の暴れん坊」を産みました。この平忠常の曾孫(ひまご)が、後に千葉一族となるのです。そんなわけで、平将門は血筋的にも千葉一族の成立になくてはならない人物というわけです。
そこで今回は、「平将門誕生前夜」である「平高望とその息子たちの時代」の状況を、駆け足で説明します。
平高望とその息子たちの時代
平高望とその息子たちは、がむしゃらに上総の経営に乗り出しました。
そのあたりは文献の裏付けがあるわけではないので確たることは言えません。しかし、当時の上総を含む千葉県一帯は、高望たちにとっては「荒ぶる蛮族の地」でしたから、通り一遍のことをしていてはたちまち大反乱に発展しかねません。そんな緊張感ある上総の統治を、彼らは命がけで行ったはずです。
親子で決死の覚悟で経営にあたった結果、おそらく軌道にのったのでしょう、高望は上総介(かずさのすけ)の任期が過ぎても帰京しようとしませんでした。高望が時間を稼いでいる間に、高望の長男である国香は、ざっくり言えば現在の茨城県にあたる常陸国の源護(みなもとのまもる)の娘を、三男の良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地の豪族との関係を深めていきました。
その結果、高望親子は上総以外にも常陸、下総といった広大な未墾地を開発し、それらの地に、血縁を武器に強力な武士団を形成しました。この地に根を張った武力集団が、後に平将門を「新皇」たらしめる土壌となるのです。
ここまで平高望について話してきたので、高望の最期についても少しだけ触れておきます。
平高望の最期
高望は、上総をはじめとする千葉周辺の平定に成功した後、902年(延喜2年)に現在の九州地方である西海道(さいかいどう)の国司に任命され、大宰府に居を構えました。おそらく、朝廷としては上総で力を持ちすぎた高望を恐れての人事だったのではないでしょうか。
ちなみに当時の大宰府は、軍事・外交を主任務とし、九州地方の内政も担当していた「九州の中心地」です。前任の上総介と比べると、西海道の国司は明らかに格が上ですから、栄達人事ではありました。ただ、この処遇を高望がどう思ったかは、今となっては知る由もありません。
高望は911年(延喜11年)、この地で亡くなるのですが、高望が大宰府に赴任した翌年の903年(延喜3年)には、昌泰の変により失脚した菅原道真が同地で亡くなっています。
2つの人生の交差点「大宰府」
菅原道真といえば、中級貴族ながら宇多天皇に寵愛されて公卿にまで栄達した人物です。忠臣であると同時に才人として名高い人物ながら、藤原時平の讒言により政争に負け、大宰府に左遷されてしまったことで有名です。魑魅魍魎が跳梁跋扈する都で栄達すると、こういった政争がつきものなのですね。不遇を嘆き亡くなった後、怨霊として畏れられたり、さらに後には天満天神となり学問の神様として崇められたりし、死後なお数奇な変遷をたどったこの御仁は、平高望と同時代人でした。
写真は、現在の太宰府天満宮の本殿です。太宰府天満宮の公式サイトによると、この建物の由緒は、905年(延喜5年)、道真公の御墓所に門弟の味酒安行が廟を建てたことが、太宰府天満宮の始まり、とあります。その後、919年(延喜19年)に醍醐天皇の勅命を受け最初の御社殿が造営され、数度に亘って兵火で焼失した後、現在の御本殿は1591年(天正19年)に筑前国主小早川隆景によって造営されたそうです。数回にわたり兵火で焼失したとはいえ、立て直しは都度慎重に再現をはかったことでしょう。
その意味で、この建物は平安中期の様子を相当程度今に伝えているものと思われます。
都の中心で栄達しつつ、政争に負け不遇の最期を遂げた菅原道真と、都を厭い荒ぶる上総の地を治め、国司として九州に赴任した平高望。二人は、大宰府で邂逅したのでしょうか?もし会ったとして、二人はどんな言葉を交わし合ったのでしょうか?
文献にはまったく残っていない「歴史の一場面」に思いをはせつつ、第6話の筆を置きたいと思います。
【著者プロフィール】 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。