第十二話「千葉一族の祖にして将門の叔父 平良文の謎」【2024年5月号】
千葉一族盛衰記/歴史噺家 けやき家こもん
前稿では、平将門が非業の死を遂げました。これまで複数回にわたり将門をとりあげてきた理由は、千葉一族にとって彼の事績が非常に大きな意味を持つからに他なりません。
他方、将門記では将門の宿敵として叔父や従弟が複数名登場しますが、「千葉一族の祖」にして将門の叔父でもある平良文(たいらのよしぶみ)の動静は一切書かれていません。
これまで見てきた通り、将門の戦は国香、良兼等の叔父や、従弟の貞盛といった血縁者との争いで彩られていますから、良文が書かれていないことは不思議といえば不思議です。もちろん、一連の将門の戦に良文が一切関与していないのであれば書かれないのは当然ですが、史実をみる限り「まったく関与していない」とするのもまた、不自然なのです。
将門の所領を引き継いだ「叔父の良文」
将門の領土は、叔父である良文に与えられています。その根拠は、「平常胤寄進状」に、元々は将門の領土であった相馬郡について「是元平良文朝臣所領」と記述があるからです。
朝廷は将門を成敗する立場でした。その意味で、朝廷が領土を下げ渡す「支配の構造」を考えれば、朝廷から相馬郡を領地として認められた良文は「将門を倒した側」として考えるのが自然でしょう。しかし、現在にも残る良文と将門の伝説では、良文は将門に味方したという趣旨のものが多くあります。
「千学集抄」と将門・良文伝説
たとえば、「千学集抄(せんがくしゅうしょう)」では、以下のような伝承を今に伝えています。非常によくまとめていただいているので、千葉市の「千葉市地域情報デジタルアーカイブ」に掲載されている文章をそのまま掲載します。
「妙見が示現したのは、承平元年(九三一)、良文と将門が結んで上野国に攻め入り、上野国府中花園の村の染谷川で国香の大軍と衝突して七日七夜にわたり合戦をくりかえし、わずか七騎にまで打ち破られ、良文も落馬に及ぶありさまであったが、そのときに童子(金色の光ともいう)となって示現した妙見菩薩は、敵の頭上に剣の雨を降らせ、残った七騎はさんざんに切り勝った。良文・将門の七騎が勝利のあと、たずねあるくと、童子となって示現したのは府中の七星山息災寺の妙見菩薩であった。童子となって良文を守護したのは、ここの妙見なのであった。このとき以来、この妙見は良文の弓箭神として尊信をうけ、千葉妙見は、この妙見を戦勝の妙見として祭ったのがはじまりである」
結論からすれば、この「千学集抄」における将門と良文に関する記述は、千葉一族が千葉県一帯を統治する正当性を裏付けるために作った神話まじりの伝承です。この伝承の内容で「良文と将門が味方だった」という以外に重要なのは、千葉一族がある限り尊崇し続けた妙見信仰の発端について書かれていること。また、ここで取り上げられている「将門対国香」の染谷川の戦は、将門が「朝廷の敵」になる前の戦である、ということです。つまり、千葉一族にとって、良文が将門とともに戦ったのはあくまで「義のある戦」でなければならないわけです。
なお、補足ですがここでとりあげた千学集は、ざっくり言えば安土桃山時代(1573年~1603年)周辺に成立したとされる文献です。つまり、将門の死後六百年以上たってから書かれたものということになりますから、そのあたりも留意してお読みください。
次稿は、謎の多い平良文の足跡についてみていきましょう。
【著者プロフィール】
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。