千葉一族盛衰記 第十三話「平良文は将門の死の伝達者だった?」【2024年6月号】

  2024/6/6
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これまで本稿で大きく取り上げた人物は、桓武天皇からはじまり、平高望とその孫、平将門の三人です。これからとりあげる平良文は高望の子であり、将門の叔父ですから、生まれた順で書くならば将門の前に書いておくべき人物です。

他方、良文が歴史の表舞台に「蜃気楼のように」登場するのは、将門の乱の後であるため、あえて順番をかえて紹介させていただくことにしました。それでは、まずは謎の多い平良文の異名とされている「村岡五郎問題」からみていきましょう。

平良文は村岡五郎なのか?問題

「二中歴(にちゅうれき)」という鎌倉時代の初期に編まれた事典があります。この事典は、当時の貴族や知識人のための百科事典です。「二中歴」は、平安時代の後期に書かれた「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」という事典を足し合わせて作られたものですが、この事典に「村岡五郎吉文」という武者の名が記載されています。この名前が、平良文の異名とする説があります。

この説がややこしいのは、「どこの村岡なのか?」問題をはらんでいる点です。というのも、「村岡」姓を名乗っていることから、この武者の本拠地は「村岡」ということになるのですが、現在の神奈川藤沢市の村岡とする説(相模説)と、現在の埼玉県熊谷市の村岡とする説(武蔵説)の二つの説で争いがある。いずれにしても、調べた限り通説では「平良文は村岡五郎だ」と確定しているわけではないようです。伝承や今昔物語に出てくる良文の物語を読み解くと「そうなのではないか」と考える説がある、ということになります。

良文は将門の死を伝えたのか?

川尻秋生氏の「古代東国史の基礎的研究」に、「良文と将門のからみ」で興味深い説が書かれています。
川尻氏は、「大法師浄蔵伝」の奥書に書かれた「外記日記(げきにっき)」の引用箇所をひいて、良文が将門誅殺の速報を伝える役割をしていた可能性について言及しています。

「外記日記」というのは、朝廷の役所機関である外記局で書かれた公務日記で、朝廷の公的な日記として奈良時代末期から平安時代後期にかけて作成されました。
また、「大法師浄蔵伝」というのは、平安時代中期の天台宗の僧である浄蔵の伝記です。その「大法師浄蔵伝」の中に書かれていた「外記日記」の引用個所に、将門の乱の折良文が果たした役割が書かれているのです。もちろん、「外記日記」が現在残っていれば原本で確認できるのですが、残念ながらこの書物の大半は散逸しており、該当個所が書かれた部分はすでにありません。

細かい事情はおくとして、川尻氏が引いた「外記日記」における将門誅殺の経過部分をまとめると

・将門が猿島郡の戦場で、平貞盛、藤原秀郷等によって誅殺されたのが2月13日
・平良文が安倍忠良に将門の戦死を伝えたのが2月14日夜半
・安倍忠良が上野国に将門の戦死を伝えたのが2月15日巳刻(午前10時頃)

となります。
ちなみに、この連載でも度々引かれている「将門記」では、将門の戦死は2月14日なので、この「外記日記」における将門の戦死日と一日の開きがあります。この「一日の差」について論じることは控えますが、ここで重要なのは、平良文が「将門戦死情報」の「公の伝達者」となっているという点です。
 
電話やSNSのない時代に、将の「確たる戦死情報」を得て、日を置かず伝えられる立場にいられるのは、①その戦場のごく近くにいて、②戦局の情報を得るために情報網を構築している人物、と考えられます。また一般的に考えれば、「味方の将」の死を、公に乗るルートで報告する者はいないので、この史料の記述を信じるならば、良文は「将門の鎮圧者」として活動していた、と考えるのが自然です。

説話以外の史料で類推できる良文の事績は以上ですが、いずれの話も少々地味な印象はぬぐえません。
一方で、前回紹介したような「妙見説話」などの伝承では、良文はいろいろな役柄で登場します。良文は、派手な活躍の歴史が残っていないために、後に千葉一帯を統治した「千葉一族の正当性」を支える多くの伝承に登場することになった、と考えてみるのも面白いかもしれません。

【著者プロフィール】
 昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。

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