千葉一族盛衰記 第十五話「忠常の乱と新たな時代の鼓動」【2024年8月号】

  2024/8/1
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千葉市史の第一巻に、「平忠常の乱」の項があります。この市史が上梓されたのは1974年(昭和49年)ですから、今からちょうど50年前にあたります。半世紀前の市史ではありますが、とてもわかりやすいため、この内容をもとに忠常の乱の流れを書くことにします。千葉市史は現在インターネットでも読むことができるので、興味があればぜひそちらもお読みください。

平忠常の権勢

「今昔物語」という平安時代の説話集があります。この書物については、平良文を紹介した第十三話でも話題にしました。

「羅生門」や「鼻」など、芥川龍之介が書いた短編小説のもととなっている物語は、この説話集に紹介されています。また、かぐや姫で有名な竹取物語も、この中に書かれています。この説話集は、およそ1120年代に書物としてまとめられたと考えられていますから、世に出回ったのは、「忠常の乱」の後100年前後と考えてよいでしょう。

 この書物の中に、本朝世俗部として、平安の初期から後期までの歴史が書かれた箇所があり、そこに忠常の乱が記載されています。そこでは、忠常について、上総下総を自由に支配し、納税の義務を果たさず、常陸守の命令にも従わない強力な権力者として紹介しています。

常陸守といえば常陸の地方長官ですから、その命令に従わないということは、将門同様「朝廷の命をないがしろにする人物」として成敗されかねない危険な行為です。そのような朝敵の誹りすらいとわない彼の「力の源泉」については、前回の稿をご確認ください。あえて一言で言うならば、「地元の代弁者」としての自力の強さ、となるでしょうか。

そんなわけで、例えば国司の命令とはいえ「そりゃないだろ」というものについては、地元代表として押し返さなければならないこともあったはずです。

忠常の乱と道長の死

また、忠常の乱の伏線として千葉市史に書かれているのは、藤原道長の死です。現在NHKで放映されている「光る君へ」では、柄本佑さんが演じている彼が、当時朝廷内で絶対的な権力を握っていた道長です。千葉市史の道長の死に関する文章はなかなか迫力があるので、少々長いですがそのまま引用します。

「万寿四年(一〇二七)の十二月四日、都の法成寺無量寿院の阿弥陀堂では、御堂関白(みどうかんぱく)藤原道長が入寂し、一門の慟哭と読経の声が境内にこだまして、いつ果てるともなく続いていた。道長の死は全盛を極めた摂関政治の凋落の第一歩であり、中央政界のみならず、地方の受領層にも大きな影響を与えたが、それまで抑圧されてきた私営田領主(荘園を直営する領主)や名主(みょうしゅ)層(荘園内の有力農民)にとっても、彼らの不満を爆発させる絶好の機会となったに違いない。」

そうなんです。実は、道長といえば「月が欠けないのぉ」と鼻歌まじりに詩を詠むほどの権力の持ち主ではあったものの、道長とその子頼道を境にいわゆる「摂関政治」は事実上終わりを遂げ、歴史は天皇親政から院政へと向かいます。このあたりの話も非常に興味深いのですが、そこは本論から離れすぎるので別の機会としましょう。

ここで言いたいのは、そのような時代の変わり目には、大きな乱が発生するものであり、そのような「乱の幕開け」が「忠常の乱」であった、ということです。非常におおざっぱに言えば、忠常の乱の起因となった「地方における朝廷への怨嗟」が、後に鎌倉幕府成立の原動力となり、結果としての「千葉一族の栄華」の下地となるのです。

【著者プロフィール】
歴史噺家けやき家こもん
 昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。

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