「源頼信と忠常の最期」 千葉一族盛衰記 第十七話【2024年10月号】

  2024/10/3
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大儀なき亡国の軍勢

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忠常のゲリラ戦は連戦連勝であったようで、乱の開始から3年後の1030年(長元3年)には、今の千葉県のほぼ全域が忠常の勢力範囲となりました。

しかしその一方で、安房、上総、下総の国庁は機能不全に陥りました。例えば、下総の国司が飢餓に苦しみ、その妻子が憂死する惨状だったとのことですから、下総の農産品の収穫高も、国庁の機能をみても、徴税ができる状態ではなかったのでしょう。

また前回ひいた上総の乱の後の田畑の状態は「戦前の耕作田が二万二千九百八十余町あったところ、戦後は一八町あまりになっていた」と記録されています。この数字は、古代の記録ですから割り引いて考える必要はありますが、国の惨状を考えるよすがにはなります。

これらの史料を前提とすれば、忠常の軍は移動しながら国庁や田畑を襲い、あるいは略奪し、敵が現れれば闘い勝利する、という「巨大な暴徒」のような様相だったのではないでしょうか。

確かに、忠常の乱の開始当初、安房の国司を焼き殺したときには、彼は彼なりの言い分があったはずです。地元の豪農たちから安房の国司の横暴を聞かされてもいたのでしょうし、その横暴が忠常の利害を浸食するようなものでもあったのでしょう。

しかし、いったん戦が始まれば、その目的は勝利することに収斂されます。特に、大儀を見失った軍隊は、洋の東西を問わず残虐な殺戮集団となることは歴史が証明しています。そうなると、当初忠常を頼り支持していた者たちも、忠常を怖れ逃げ、あるいは敵対し、軍としてはますます孤立していくことになります。

大将忠常も、すでに血に酔ってしまった軍勢にブレーキをかけることができなくなってしまったのかもしれません。まして兵站について戦略をもたぬまま始まってしまった戦ですから、兵を食わすためには、略奪するよりほかに手がなかったはずです。

将門と忠常を比べたとき、千葉一族の末裔たちが「将門」の事績や伝説は自分たちの治政の正当性を主張する際に利用するものの、「忠常」について言及することがほとんどないのは、このあたりに理由があるような気がします。

忠常の最期

忠常の常勝に業を煮やした朝廷は、甲斐守である源頼信と関東各地の国司達に、忠常追討の詔勅を下しました。

この源頼信は、どうやら忠常と戦火を交えることなく、忠常を屈服させたようです。千葉市史によると、頼信はその子頼義とともに、忠常の子を伴って甲斐に入りました。この忠常の子を仲介として和平交渉がすすめられた可能性が高いとの分析をしています。

他方、あくまで一般的に考えれば、忠常は反乱軍にせよ常勝軍ですから、我が子との交渉とはいえそうやすやすと和平交渉にのることはしないでしょう。兵を引くのであれば、相応の大きな譲歩を条件に交渉をすすめるはずです。

しかし、忠常は非常にあっさりと頼信のもとに投降したようです。「日本紀略」には、その和平交渉の結果が書かれています。千葉市史から、その該当箇所の文面を引用します。
「長元四年四月二十八日、頼信が知人の権僧正に忠常が出家して常安と名を変え、子息二人、郎党三人を伴って甲斐に来降したので、来月みずから上洛すると書き送り、この旨の知らせを受けた関白藤原頼通(よりみち)は、勘解由長官(かげゆのかみ)播磨守藤原資業(すけなり)を使いとして下向させ、書状を頼信におくっている。」

なんと、あれほどまでに暴れまわっていた忠常が、出家して頼信のもとに投降したというのです。私には、この文面から、大儀なき戦に倦んで極まってしまった男の姿が見える気がします。

その後、忠常は頼信に連行されて上洛する途中、病死したと記されています。また、その首は京都でさらし首にされたのち、親族にかえされました。

忠常の乱の後、忠常の子等は罪を問われず、両総の地の治政に励みました。この忠常から数えて三代後の子孫が、はじめて千葉を名乗ることになるのです。

【著者プロフィール】
けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。

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