「荘園公領制の成立と相馬御厨」千葉一族盛衰記第二十三話【稲毛新聞2025年4月号】
前回の稿では、後三条天皇が行った延久の荘園整理令について説明しました。この大改革の断行によって、藤原摂関家の支配地ですら「整理の対象」となり、またこれまで曖昧だった「土地の支配体系」が「荘園と国衙領(こくがりょう)」に明確に色分けされていった流れをみてきました。
一方で、このような「支配体系の急激な変化」は、千葉一族前史の面々を含む地方豪族たちにとってはまさに死活問題でした。「有力貴族に寄進している体裁がある程度整っていれば、あとは不問」というわけにはいかなくなったのです。
おそらく、この流れを読み誤った小さな豪族は、あっという間に没落したことでしょう。加えて、何よりこの改革によって重篤な被害を受けたのは、これまで「荘園」の名のもとに繁栄を謳歌した貴族たちでした。
また一方で、このような荘園整理の流れは国司たちにはおおいに支持されました。力のある地方豪族に支配されていた「荘園もどき」が整理されれば、これまで手も足も出なかった肥沃な土地が、彼らの富の源泉でもある「国衙領」になるのです。
後三条天皇は、国司たちの後押しを背景に土地制度改革を進めると同時に、院の御所に北面の武士を組織したり、源義家らを武士団の側近として召し抱え、院自身を護衛させたりしました。
日本史上「院政期」と呼ばれる100年間は、貴族社会の衰微が顕著な時代であったと同時に、院の権力の伸張にあわせて武士の目覚ましい台頭がみられました。それは、上記のような「院と武士たちの互恵関係」によるものでした。
その院を支える武力の末端に、平常将、常長、常兼、常重といった千葉一族前史の面々が血を吐くような思いで必死にくらいついていたのです。
平将門や平良文からの相伝の所領であった「相馬の所領」は、1130年(大治5年)常重の代にその一部を伊勢内宮に寄進し、正式に荘園となりました。その後、若き千葉常胤を悩ませることになる「相馬御厨」問題は、まさにこの院政期に種がまかれたのでした。
【著者プロフィール】
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。