千葉一族盛衰記 第八話「将門記」と下総に残る将門伝説【2024年1月号】

  2024/1/5
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将門が生きた時期とほぼ同時代の「将門関連史料」は、「将門記(しょうもんき)」ただひとつです。将門が亡くなったのは940年(天慶3年)。一方、将門記が書かれたのは、おおよそ11世紀前期から末期の間ではないか、という説が有力なようです。その他では、将門記に書かれている菅原道真の官位から推測する説があります。その説では、将門記に道真が「右大臣正二位」と書かれていることから、道真の怨霊の呪いを恐れた朝廷が、すでに亡くなっていた道真に「右大臣正二位」を与えた923年から「正一位左大臣」を追贈する993年までの間としています。

ここでまたも菅原道真がでてくるところに、高望王流一族の血筋と道真の「偶然の因縁」が垣間見えて面白いですね。ともあれ将門記は、将門の死後そう長い時間がたつ前のどこかで書かれた一級の史料ということになります。

将門記には「真福寺本」と「楊守敬旧蔵本」の二つの写本がありますが、そのいずれの写本も冒頭部分が失われてしまっています。また我が国の軍記としては最も初期に書かれたものの一つであるがゆえに文章が難解でありどう解釈していいかわからない部分も多くあります。この「なんとも謎が多い」史料しかないところが、平将門の面白いところであり、また多くの伝説を生み出す要因にもなっているように思います。

将門生誕の「いくつかの伝説」

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例えば、仮に「失われた冒頭部分」があったなら、将門がどこで生まれ、どのような幼年期を過ごしたのかが明らかになるかもしれませんが、それがない。結果、「将門は〇〇で生まれた」とする「伝説」が下総の地にいくつかあります。その一つが、千葉市のお隣の佐倉市と酒々井町にまたがる「本佐倉城」周辺です。

本佐倉城とは、将門の時代からぐっと時を経た戦国時代、千葉一族によって繁栄したお城です。このお城の周辺、あるいはこのお城が立地しているまさにその場所に、平将門の父である平良将の居城があった、という伝説があり、それが将門生誕伝説とひもづいています。

その他、将門生誕の地は将門の母の地元である茨城県取手市寺田ではないか、とする説など下総のそこかしこに「将門生誕伝説」が残っています。

史料が無い以上真実はわかりませんから本稿では深追いしません。「千葉一族盛衰記」をものする私が面白いと思ったのは、戦国時代、千葉一族が移り住んだ佐倉周辺など「千葉一族が勢力を誇った地」に、将門伝説が色濃く残っているという事実です。特に佐倉市には、先に紹介した本佐倉城の周辺に「将門」という地名まであります。この一致が意味するところを考えると千葉一族は「将門伝説」を地域の統治に利用した可能性がある、とも思えてくるのです。


写真:茨城県坂東市にある将門公の銅像。逆光により顔がわからないところが、謎の多い将門公らしい写真
 

平将門と千葉一族の統治

その他の例で言えば、千葉一族の支流である相馬氏は、平将門の伝説が残る相馬御厨(そうまみくりや)を本拠地とする豪族ですが、彼らも意図的に(真実かどうか裏付けのない)将門の子孫であることを伝える努力をしています。支流とはいえ千葉一族ならば、高望王流平良文の流れであることは事実ですから、ことさらに「将門」を持ち出さなくても統治の正当性は確定しています。にもかかわらず、なぜ彼らは将門の子孫であることを吹聴したのか?

特に戦国時代以降の千葉一族にとって血筋とは別にもう少し「情緒的なスパイス」をきかせる必要が、下総統治には必要だったのかもしれません。いわく、強欲な中央や群盗などの不条理な暴力から地域を守り、関東を日本の「理想郷の中心地」としてまとめあげようとした、とする「言い伝え」の伝承者が千葉一族である、というような。

そのあたりを念頭に、将門記に書かれている平将門の「悲劇の事績」を読み解いていくと、千葉一族が目指した世の在り方がわかるような気がするのです。次回は、そんな「将門の生涯」を駆け足で概観します。

【著者プロフィール】 
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。

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