「忠常の乱、あるいは絶望の焦土戦連載」千葉一族盛衰記 第十六話【2024年9月号】

  2024/9/5
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後に読む人にはちょっとピンとこないかもしれませんが、2024年の8月は、現職の兵庫県知事の「パワハラ、おねだり問題」が連日ニュースになっています。

この問題は、県職員がクビを覚悟で知事のパワーハラスメントの告発をしたことが発端でした。この職員の告発は、公益通報かどうかを検証される間もなく処分対象行為に認定され、追い詰められた職員は自殺をしてしまいました。

その後、本原稿をしたためている8月28日現在になって尚、知事派職員や知事の追及に及び腰の議会に守られて、問題の知事はその職にとどまったままです。もちろん、知事としての大きな権力はそのままに業務を続けています。民主主義の現在にあっても、県知事というのは、それほどに「強く守られた」存在です。

地方長官焼殺の衝撃

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まして、チカラがすべての古代の日本で、朝廷から任命された地方長官である国司は絶大な権力をもっていました。多くの古文書が裏付けるように、国司の行き過ぎた振る舞いは、兵庫県知事のおねだりとはくらべものにならないレベルで発生しており、地方の民にとって怨嗟の対象となっていました。

時に、その「権力のカウンター」として存在していたのが、「地方豪族」です。忠常は、そんな有力豪族の一人でした。

忠常の乱は、1028年(長元元年)安房の国守である惟忠(これただ)を焼殺したことからはじまります。この凄惨な事件の背景は史料がないためわかりませんが、先のような「地元の利害(忠常の利害)」が、安房の国守の治政方針と激しくぶつかったことは間違いないでしょう。忠常は安房の国府襲撃の後、上総国府を占領して国政を停止させ、官人たちの自由を奪い、上総介である平為政の妻子を抑留しました。

安房国府襲撃の報を受けた朝廷では、混乱の中追討軍が編成されましたが、出撃がもたつき、追討戦でもはかばかしい戦果はあがらないまま月日だけが流れました。

その状況にしびれを切らした朝廷は、東海・東山・北陸諸道に忠常追討の官符をくだして追討軍を後方から援護しました。

しかし、そもそも国を守る役割の国司たちは忠常追討どころではないでしょうし、地方の有力豪族たちにしても、温度差はあれ「忠常と似たり寄ったりの自分の境遇」を思い、忠常に同情的であったのではないでしょうか。

そのためか、このときの官符に関して、効果があったとする史料は見当たりませんでした。その後も、追討軍はトップの解任などの混乱が続きました。そのような追討軍のもたつきを背景に、忠常は安房上総下総の各地をつぎつぎと落としていきました。

絶望の焦土戦とその背景

連戦連勝だった忠常の戦ぶりは一見華々しいものの、戦後処理の仕方をふまえると破滅的にもみえます。通常、戦の勝利により権力を勝ち取ろうとするならば、敵の馘はとっても統治機構たる支配体制はなんとか維持しようと努めるものでしょう。

しかし忠常は、敵を殺し、奪った土地を焦土化し、敵が来たらゲリラ戦をしかけるという戦い方を続けました。その結果、5年にわたる大乱の後に任命された国司の報告によると、上総国の田畑は、戦前二万二千九百八十余町あったところ、戦後には僅かに一八町余に過ぎなくなった、とあります。

もちろん、忠常がこのような焦土戦を続けた理由として、彼が単に粗暴な人物であった可能性も否めません。しかし、この大乱からほんの90年前、忠常の祖父に当たる将門が、似たような経緯で朝廷にたてつき滅びた事実を前に、忠常の乱はあまりにビジョン無き「無謀な戦」に、私には思えるのです。

あくまで仮説ですが、安房の国司を焼殺したとき、忠常は討伐されることを覚悟していたのではないでしょうか。ただ、あまりに自分や地域の利害と国司の治政の相克が深く、もはや修復不可能だった。よって、ここで地域の怒りの代弁者として国司を殺し、自分も追討軍に滅ぼされることで英雄として名を遺す、という一種のヒロイズムの発露としての戦であったのではないか、とすら思えてしまうのです。

【著者プロフィール】

歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。

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