土地所有制度からみる千葉一族前史② 千葉一族盛衰記第十九話
寄進地系荘園と国領
平高望の息子たちは、荘園を開いていきました。そのまた息子たちも、主に千葉県とその周辺のエリアで荘園を広げるよう努めました。
荘園は権力の源泉です。荘園で作られた作物の一部が自分たちの利益であり、国領を預かる身分から離れた地方豪族にとっては、荘園がなくなればすぐに生きていけない状況に陥ります。
そのため地方の豪族たちは、自分たちの生命線である荘園をなんとかして維持・拡大しようと努めたわけです。
さて、平高望からみて、平良文は息子であり、平将門は孫にあたります。良文、将門が活躍した時代は10世紀であり、このころになると荘園も形を変えていきました。
初期荘園から寄進地系荘園へ
ちょっとややこしい話ですが、重要な点なので簡単に説明します。
桓武天皇が未だ子どもだった奈良時代に制定された「墾田永年私財法」。この法律を元にした発生当時の荘園を、初期荘園といいます。ここで重要なのは、初期荘園は個人所有の土地であったものの、税金はかけられていた、という点です。
初期荘園は、大貴族や大きな寺社などが主体となって経営されていましたが、規模が大きくなるに従って荘園を所有する貴族の権力が肥大化しました。そのような状況を打開するために、902年に醍醐天皇が出した延喜の荘園整理令などが契機となり、初期荘園は無くなっていきます。
一方で、10世紀以降荘園がなくなったわけではありません。このころから、荘園は寄進地系荘園という形態に変化していきます。
平将門やその叔父の良文たちは、「桓武平氏」というバックグラウンドと、自らが築き上げてきた人脈で土地を開墾していきました。しかし、そのように苦労して作ってきた田畑は、私有地とはいえ税金がかかります。
徴税は、中央から各地に派遣された国司の仕事です。この時代の国司は、徴税の裁量幅が大きかったことから、任命権者に金を貢いで国司になって、地方で重税をかけて蓄財を重ねるような不届き者が多くいました。
そこで、国司からの重税を逃れるために、自分たちが開発した田畑を思い切って大貴族や大きな寺社に寄進する、という形の荘園が、先に紹介した寄進地系荘園です。
せっかく自分たちで開発した田畑を、なぜ大貴族らに捧げてしまうのかといえば、絶大な権力をもつ大貴族等から、その荘園に対して「不輸の権」や「不入の権」という、いわゆる「税金免除特権」が与えられるからです。
国司の分け前が乗せられた税金よりは、大貴族などに金を納めたほうが安く上がる場合が多かった。そんなわけで、多くの豪族たちは自分が持っていた田畑を寄進したのです。
一方で、将門や忠常といった「地方の大豪族」にのし上がった者たちは、その所領のすべてが荘園だったわけではなく、一部、あるいは大部分が、郡や郷と呼ばれるいわゆる国領だったと考えられます。
国領であれば、そこは天皇の土地ですから、国司から年貢や公事といった税金が徴収されます。しかし、その税金があまりに重ければ、自分たちの取り分が少なくなるばかりか、手下の者や農民たちを困窮させることにもつながってしまう。そこに、大きな衝突が生まれました。
まして、将門や忠常は、在地では敵なしの軍事力をもっていました。さらに、自分たちは桓武平氏という自尊心もある。そんな彼らが、中央から派遣されてきた新参者の国司に、国司の取り分をたっぷり含めた税金の支払いを、すんなりするはずもありません。
平将門を紹介した章において、将門の後半の敵は国司が多く登場しました。また、最終的に将門の身を滅ぼすことになった、自分自身を「新皇」と称した振る舞いも、要は「中央に払う税金を逃れるための権威付け」とも考えられます。また、時代が下って平忠常の乱も、忠常が安房国司を焼殺したところから始まりました。
以上の通り、この時代の地方豪族と国司との戦やいざこざには、このような「土地所有問題」が深く絡んでいたことがうかがえるのです。
【著者プロフィール】
歴史噺家 けやき家こもん
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。