【八街市文化財】明治・大正時代努力の結晶「七十二町歩開墾成功碑」

  2021/6/16
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以下は 3 年前に書かれた内容です

自分の住む街はどのようにして成り立ってきたのかと考えたことはないだろうか?

今回はそんな開墾のお話。

現代に生きる我々にとって、住んでいる場所はある程度整備されているのが当たり前。

それが至極当然の事のように感じている事だろう。

しかし、昔は違った。

住宅の前に、そこにある田畑も最初からそこに整備されていたわけではない。

誰かが作ったから存在するのだ。

開墾とは?

はじめに開墾について触れておこう。

開墾とは、山野を切り開いて耕地にしたりすること。

いわゆる、農耕するための田畑を整備することだ。

江戸時代に行われた新田開発で、条件の良い土地はほぼ開墾されたのだが、千葉県の北総台地の牧(まき)が今後の対象として挙げられた。

牧(まき)とは、牛や馬などを放し飼いにしていた地域のことで、千葉県は北西部からこの北総、下総まで広大であった。

困難を極めた八街の開墾

旧佐倉藩の士族(小川荘平氏)を主に始められた八街の開墾であるが、一度も手の入ったことのない土地は固く困難を極める。

結果、明治30年に開墾を断念、木村徳太郎氏に土地を売却する。

その木村氏もすべての開墾は行えず、明治末に現在の八千代市(旧阿蘇村)の清宮清五郎氏に売却。

その後、清宮氏の鋭意努力により、大正初期にようやく七十二町歩(一町歩とは約1万平方メートル)の開墾が完了した。

完了まで約40年の月日がかかるという、非常に困難を極めた開墾であったことがうかがえる。

では、実際開墾された七十二町歩とはどの程度のサイズとなるのだろうか?

単純に単位を直すと、1町歩=10,000平方メートルx72 = 720,000平方メートル

平方メートルの計算方法は、縦(m)×横(m)で表される。

計算しやすいように、一辺の長さを900mにすると、もう一辺の長さは800mとなる。

現在の八街市の地図に当てはめると、赤枠で囲ったサイズ程度になる。

サッカーグラウンド1面が約7,000平方メートル程度となるので、10面分の広さだ。

場所の詳細

そんな七十二町歩開墾成功碑は、現在の八街市文違(ひじかい)地区にある。

文違二番組集会場の敷地内にひっそりとたたずむ石碑。

周りは田畑ではなく現在は住宅地だ。

人々の生活圏の中にあるので、訪れる際には騒音などに注意したい。

◆営業時間:
24時間
◆定休日:
◆駐車場:
※有(集会場の駐車スペース)
◆住所:
千葉県八街市文違301-604  MAP
◆アクセス:
・JR八街駅より千葉交通バス(住野線)乗車、文違三叉路にて下車後徒歩5分 
※千葉交通バス時刻表
・JR八街駅から徒歩の場合25分程度
◆TEL:
043-443-1464 (八街市社会教育課)

ギャラリー

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