
船橋ゆかりの武将・成瀬正成の生涯を伝える一冊、地元の歴史愛好家が自費出版
3/3(月)船橋ゆかりの武将・成瀬正成の生涯を伝える一冊
地元の歴史愛好家が自費出版
船橋市在住の榊原和夫さんが、「戦国を鎮めた 成瀬正成の軌跡」を2024年12月に自費出版した。
成瀬正成(まさなり)は徳川家康のもとで戦国時代に活躍した武将で、その功を認められ、船橋市の西部に位置する栗原藩で大名となった人物である。
榊原さんが成瀬正成について調べるきっかけになったのは、地域の歴史と民話をこよなく愛するボランティア仲間から成る「かつしか歴史と民話の会」でその名を聞いた時に、中学生の頃に教えられた話と重なったからだという。「17歳の若き美少年・正成が主君徳川家康のために白馬にまたがり奮戦するという話で、教えてくれたその先生は、大学で成瀬正成の子孫から聞いたということだった」と榊原さん。
出版した本はA5サイズで136ページというボリューム。榊原さんがマイクロソフトWordを使って自分でページを組み、製本までしてくれる印刷業者に依頼してフルカラーで印刷した。同書では全部で9つの章に分け、成瀬正成の出世から犬山城主になるまでの逸話を、榊原さんがさまざまな文献から編集し、まとめたものとなる。
その一部、「成瀬隼人(正成)の忠勇」という逸話で伝わる話では、小牧長久手の合戦(1584年)で「すでに功名をあげたのだからここにとどまれ」という命に、「小利をむさぼるは武士の道にあらず」と乱戦に突入し味方を鼓舞して奮戦したという。家康がその武功を認め、500石と50人の鉄砲隊を与えたことで、正成は若くして一軍の将へと出世した。この話は「忠義」を象徴するものとして明治時代の児童雑誌「小国民」にも登場するのだという。
正成はその後も家康のもとで出世を続け、小田原攻め後の家康の関東入国時に、23歳で葛飾郡栗原郷に4000石を与えられ、その後の加増で大名となった1600年頃にはこの地(現・西船橋)に陣屋を構えたと考えられるという。
徳川幕府で正成は尾張徳川家の補佐役の任を果たしたのち、幕府附家老となり犬山城(愛知県犬山市)を与えられ、栗原藩を次男の之成(ゆきなり)に譲った。栗原成瀬家と正成の長男正虎が継いだ犬山成瀬家はそれぞれ幕府の信頼も厚かったが、栗原藩の之成が39歳で病死、1歳の之虎が家督を継いだが5歳で夭折、後継ぎがなかった栗原藩は3代、38年で断絶となった。
榊原さんによると、船橋市における成瀬正成の足跡は「宝成寺(ほうじょうじ)」(船橋市西船6-2-30)で見ることができるという。寺の名の「成」の字は成瀬の名を由来としている。また、「京成西船駅近くに成瀬地蔵があり、栗原成瀬家の悲しい歴史を伝え、5歳で亡くなった之虎を供養するために地元の女性たち作ったという言い伝えがある」とも。
「約7年かけて研究してまとめた。市民の皆さんに手に取ってもらえるとうれしい」と榊原さん。
船橋ゆかりの戦国武将・成瀬正成とその後の歴史を綴った「戦国を鎮めた 成瀬正成の軌跡」は非売品だが、船橋市の図書館に多数寄贈・所蔵され、貸し出しも可能になっている。